自分てなんだろう。どこまでが自分だろう。
自分てなんなの?
自分ていったい何だろうなって。
そしてどこまでが自分なんだろうなって、たまに不思議になる。
まだ小学生の頃の話、下校途中に、友達とこんな会話をした。
私 「ねー自分の髪の毛って "自分"なのかな?」
友人 「え〜と...髪の毛は"自分"ではないでしょ。自分に生えてる毛だよ」
私 「じゃあさ〜自分の右腕はさすがに"自分"といっても良いかな?」
友人 「う〜ん...まるまる右腕となると"自分"といっても良さそうだけど...でも"自分の一部"であって"本体"ではないかも」
私 「じゃあ自分てなんだろうね。。。」
友人 「そうだね...自分って何なのか分からん。。不思議。。」
何十年も前のことなので細部はもちろん違うと思うけど、、
日々こんなくだらない(?)会話をしながら下校していたのだった。
答えはすでに出てた
仏教の"縁起(えんぎ)"の思想について知ったのはそのずっと後のことだった。
それはまさに小学生の頃に疑問に思っていた"自分とはなにか?"に対する答えだった。
お釈迦様がすでに2600年も前に答えを言ってたんだ。
この世のあらゆるものは関係性によって成り立ってるのだと。
自分は"空(くう)"である
「自分のことを説明してごらんなさい」と言われたら、
親は誰で、出身地はどこで、どんな趣味があって、どんな仕事をしてて・・
・・と「自分以外のこと」を延々と説明することになる。
これがすなわち自分という存在もまた、関係性によって成り立っているという証。
そして関係性の結び目に、かりに"自分"って名づけた。
自分って、そんな"点"みたいなものなんだって!
点は存在はするが実在はしない。目の前に出してみることができない。こういうのを"空(くう)"という。
自分とは"空(くう)"である。これが小学生の頃の疑問の答えだったのだ。
自分とは、独立して存在する確固たるものじゃなくて(図A)
あらゆる関係性の、その結び目の"点"みたいなものが自分なんだ(図B)
肉体すらも自分の本質ではない。(へんな例えだけど)自分の体を真っ二つにしても自分が二人にならないですもんね。
すべては関係性によって生じる
西洋哲学では「存在」がまず先にあり、そこに「関係性」が生まれると考えられてた。
まず「親」という存在があって、そして「子」という存在があって、だから「親子」という関係性が生まれるのだと。う〜ん至極当然に聞こえるけど、これは間違いなのだ。
スーパー大天才 お釈迦様ことゴータマ・シッダールタさんは、はじめから逆を言ってた。
関係性があって、存在が生じるのだと。
親子という"関係性"がまず先にあるから、親という存在が生じたように見える。子という存在が生じたように見えると。
結婚という"関係性"を結ぶから、夫という存在が生じる。妻という存在が生じる。関係が先で、存在は後なのだ。
これをお釈迦様は因縁生起(いんねんしょうき)という言葉で説いたそうな。略して"縁起(えんぎ)"という。
こうした考えはのちにナーガールジュナさんやチベット密教のツォンカパさんなどの手を経て"空(くう)"の思想としても広まっていった。
お釈迦様が説いた縁起の思想は、量子論によって科学的にも確認されてる。
完全な真空を作っても、人間が観測した途端に素粒子がポンポンと生まれてきてしまう。観測するという"関係性"をつくると素粒子が"生じる"。まさに縁によって起こる。
それが今我々が生きてるこの宇宙なんだ。おもしろ〜〜!
一人一人が宇宙と等価の存在
自分とは、網の目のように張り巡らされた関係性の結び目であり、
そして身近な友人や家族はもちろん、遠い宇宙の星々や、宇宙のあらゆるものが、あなたを成立させている要素なのです。
・・これって考えようによっては「宇宙全部が自分だ」ということもできることが分かるでしょうか?
なぜなら自分を成立させている要素のひとつを書き換えてしまえば、ええと・・たとえば親は誰か?の要素を書き換えてしまうだけでも、自分が成立しなくなってしまいますよね?
つまりあらゆる要素は自分の一部だとも言えちゃうわけだ!
冒頭で、髪の毛は自分か? 右腕は自分か? という話があったけれど、
「いやいや、宇宙まるごと全部が自分だぜ!」ということになる。
一人一人が"宇宙と等価の存在"である
・・そう考えると世界がまた違って見えてくる。この世はとっても不思議でおもしろい。